今日という日
2012年4月21日 Category :日記 Off
3月31日付の天声人語を読んで、ハッとさせられた。
そこには、宮城県南三陸町の戸倉中学で行われた卒業式の答辞の一節が綴られている。
「今日という日は、もっと生きたかった人の今日でもある」
東日本大震災と大津波という経験を経て、多くの大切な人を失ったからこそ出てきた言葉であろう。
しかし、これは中学3年生が考えた言葉だ。
私の中学3年生当時のことを思い出してみよう。
行きたい高校の為に受験を頑張って、卒業から高校入学までは、遊ぶことしか考えていなかった。
受験からの解放感に浸りたかったからだ。
“生きる”ということを、深く考えたことなんて一度もなかったような気がする。
もし、その当時に、彼らと同じような経験をしたとして、同じ言葉が出てくるであろうか?
今考えても仕方がないが、ただただ悲しみのどん底にいるような気がする。
それは、今の私が考える事であって、当時の私にはもっと生きようとする力があるのかもしれないが。
私には、中学3年生のゴールデンウィークに、交通事故で他界した従兄がいる。
同じ年の1月に祖母が他界しており、その直後だったので、なかなか受け入れることが出来なかったのは事実である。
そんな、生きたくても生きられたなかった従兄がいるにもかかわらず、“もっと生きたかった人の今日”ということを考えたことがないような気がする。
自分の人生を歩むのに精一杯で、視野も狭かったのだろう。
今は亡くなってから20年以上も経ったので、彼が生きていたらという仮定の人生を考える余裕はある。
意味があって生きることを許されているのだから、不甲斐ない死を遂げた人達の分まで生きなければとも考えられる。
しかし、あの事故を切欠に、彼の妹である従姉の心は閉ざされたままだ。
もっと生きたかったであろう兄のことを想い過ぎて、彼女はそこから先に進めない。
彼女の人生は彼女のものである。
兄のことは考えず、一歩前に踏み出してほしいと切に願う。
今日という日は、やり直すことが出来ないのだから。

